「いわき市って、一体どんなところだろう?」
移住を検討し始めたとき、そんな疑問を抱く方は多いと思います。また、いわき市がどのようにして今の広大な形になったのか、その歴史に興味を持たれる方もいるかもしれません。
現地での移住相談のとき、いわき担当の移住コーディネーターさんから、次のような説明がありました。
「いわき市は、合併する前の市町村の名残りがいまでも各地区に色濃く残っていて、車で10〜20分移動するだけで、地域ごとに全く異なる表情を見せるんですよ」
いわゆる「平成の大合併」は記憶に新しいですが、いわき市が生まれたのは昭和40年代前半(1966年)。なぜ、あの時代にこれほど大規模な合併が行われたのでしょうか?
気になった私は、本や資料をひも解き、その謎を独自に調べてみました。
もちろん、これは一移住者である私が調べられた範囲の考察であり、当時の複雑な理由や状況のすべてを網羅できているわけではありません。 ですが、そこにはエネルギー革命や産業転換など、いわき市が死に物狂いで乗り越えてきた、あまりにも劇的な「挑戦のドラマ」が詰まっていました。
今回は、現在の形になるまでの歴史と、地域課題の克服について、私なりの視点で詳しく解説します。
私にとってのいわき市:通過点から永住の地へ

妻と出会って、彼女がいわき市出身だと知るまでは、私にとって「いわき」は青森へ向かう途中の、ただの通過点にすぎない場所でした。
当時、私がよく利用していた「上野発の夜行列車」は、仙台へ向かうルートに2つの選択肢がありました。 一つは宇都宮や福島を経由する東北線回り、もう一つは水戸やいわき(当時は「平(たいら)」駅)を経由する常磐線回りです。
東北新幹線も未開通の当時、常磐線ルートは寝台特急「ゆうづる」が主力で、最盛期には一晩で7往復も運行していました。 私はこの「ゆうづる」の常連でしたが、いわき市の中心である平駅を通過するのはいつも深夜。乗客も寝静まった列車は静かに駅を通り過ぎ、外の景色を見る機会もほとんどありませんでした。夜の静寂の中で、ただ通り過ぎる都市の一つ。それが私の中のいわき市だったのです。
しかし、移住をキッカケにこの街の歴史を知るにつれ、かつて夜汽車で通り過ぎていた場所が、実は数々の地域課題を乗り越えて成り立っている「もの凄いエネルギーを持った都市」だと知ることになります。
特に、1966年の「5市4町5村」という前代未聞の大規模合併のストーリーは、知れば知るほど興味深いものでした。
1966年のいわき市誕生:5市4町5村の大合併とその背景

いわき市が誕生したのは1966年。 この合併は、以下の5市4町5村という、信じられないほど多くの自治体が一体となって実現しました。
- 5市: 平市、常磐市、磐城市、内郷市、勿来市
- 4町: 小川町、遠野町、四倉町、久之浜町
- 5村: 川前村、田人村、三和村、好間村、大久村
当時、日本は石炭から石油へと移行する「エネルギー革命」の真っただ中。日本最大級の炭鉱として栄えたいわき地域もまた、経済のどん底に突き落とされるほどの深刻な危機に直面していました。
1950年代からの石炭産業の衰退は、地域経済を直撃します。このまま各自治体がバラバラでいては共倒れしてしまう――そんな切実な危機感から、持続可能な地域経済を築くために、彼らは国を巻き込んだ大規模な合併という大勝負に出たのです。
常磐興産の観光産業転換と雇用維持の成功

この激動の時代、地域の雇用を守るために文字通り命がけの方向転換をしたのが、石炭採掘を中心事業としてきた常磐炭礦株式会社(現・常磐興産)でした。
最後まで残った従業員の仕事を確保し、地域経済を支え続けるために、彼らが選んだのは「炭鉱から観光産業への大転換」です。
映画『フラガール』でも広く知られるようになった『常磐ハワイアンセンター(現:スパリゾートハワイアンズ)』の開業は、その最たる成功例です。 真っ黒な石炭の街に、常夏の楽園を作るという突飛とも思えるアイデアは、見事に地域内の雇用を維持し、国内外から多くの観光客を呼び寄せる一大観光資源へと化けました。
これは単なる一企業の成功に留まらず、いわき市全体が炭鉱産業に代わる新しい経済基盤を手に入れるための、重要なターニングポイントとなったのです。
新産業都市への道:法律の条文から見える「合併の理由」
もう一つ、この大合併を強力に後押ししたのが、1962年に政府が制定した『新産業都市建設促進法』でした。
いわき地域は、国から「新産業都市」の指定を受けることで、新たな工業都市としての生き残りを図ろうとしました。実は、この法律の第23条には、このような規定があったのです。
『新産業都市としての一体的な建設を促進するためには、市町村合併による規模の適正化が必要である』
つまり、国のバックアップを受けて新しい産業都市に生まれ変わるためには、「バラバラの14市町村ではなく、一つの大きな自治体として体制を整えなさい」という条件があったわけです。
この条文に基づき、各自治体は未来の発展のために手を取り合い、1966年に現在の「いわき市」が誕生しました。 合併後、いわき市は急速に産業基盤の整備と工業化を進め、狙い通り東北地方最大級 of 工業都市へと奇跡的な成長を遂げることとなりました。
困難を乗り越える遺伝子:東京に比べて「問題解決が圧倒的に速い」というリアル

エネルギー革命、産業転換、そして東日本大震災からの復興。いわき市は、常に巨大な地域課題の最前線に立ってきました。
移住して2026年6月で1年半が経つ私が、ここで暮らしながら日々強く感じていることがあります。それは、大都市である東京に比べて、いわき市は「社会問題を解決するスピードが圧倒的に速く、フットワークが軽い」ということです。
東京のような大都市では、利害関係が複雑すぎて、何か一つ変えるのにも気の遠くなるような時間と手続きがかかります。しかし、いわき市には違った空気が流れています。
例えば、いわき市の広報誌『igoku(いごく)』。 他の都市なら定型的・お役所仕事になりがちな「福祉や医療」というテーマに対し、ここでは福祉人材・医療人材の不足を補うための独自の工夫や、攻めた取り組みが生き生きと発信されています。地方の課題に正面から泥臭く向き合う姿勢が、行政のツール一つとっても明らかなのです。
また、今年(2026年)に入ってからNHKの『新・プロジェクトX』で、ある題材が取り上げられました。それは、東日本大震災の発生時、激震に見舞われながらも不眠不休で情報を流し続け、市民コミュニティを繋ぎ止めた「FMいわき」の取り組みです。
これらを見ていて確信しました。 いわき市には、過去の度重なる困難をみんなで団結して突破してきた「問題解決の遺伝子」が、今も街全体に脈々と流れているのです。だからこそ、課題に直面したときのアクションの起こし方が、驚くほどスピーディーでフットワークが良い。
いずれはこの街のベテラン市民となるであろう私たちも、いつかその頼もしいバトンを受け取り、課題解決の一翼を担う時が来るかもしれません。
おわりに:網羅しきれない歴史の奥深さ、だからこそ愛おしい
冒頭でもお伝えした通り、14もの市町村が一つになるまでには、今回ご紹介した「エネルギー革命」や「新産業都市への指定」という大枠の理由だけでなく、それぞれの町や村の譲れない想い、語り尽くせない無数のドラマがあったはずです。私の独自の調査だけでは、そのすべてを網羅することは到底できません。
しかし、だからこそ面白いのです。
すべてを均一に塗りつぶさなかったからこそ、移住コーディネーターさんが言ったように、「車を10分走らせるだけで、今でも地域ごとに全く異なる表情(グラデーション)が見える」という、いわき市独特のグラマラスな魅力が今も残っているのだと思います。
ただの「通過点」だったこの街の歴史の深さと、今を生きるフットワークの軽さに、私はすっかり魅了されています。


